リスク管理と技術倫理(1)―リスク低減のための技術倫理―

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カテゴリ: 解説記事
リスク管理と技術倫理(1)―リスク低減のための技術倫理― 中安 文男,Fumio NAKAYASU
1.はじめに
リスク管理と技術倫理という題目で原稿を書こうとした時、最初に考えた事は、「我々にとっての最大のリスクは何か」ということであった。リスクとは、図1に示すように危険源(ハザード)の大きさと危険源の発生確率の兼ね合いで決まるが、近年、危険源が変質してきているように思われる。過去も現在も、組織の持続を阻害する要因が危険源であることに変わりはないが、過去と現在では、筆者の中で、組織の定義が異なってきたように思える。本稿では、組織を「法人か否か、公的か私的かを問わず、独立の機能および管理体制を持つ、企業、会社、事業所、官公庁もしくは協会、又はその一部もしくは結合体」[1]と定義するが、これは、過去の筆者の定義であり、現在の定義は別稿に譲る。

図1 リスク管理
組織を持続させるためのリスク管理を考えてみる。これは、組織の中で、自分を持続させるためのリスク管理と同じかどうかであるが、これに関して面白い問題がある[2]。「あなたは、直属の上司が運転する車に同乗している。上司はある路地で突然飛び出してきた老人をはねて大怪我をさせてしまった。あなたは、上司が制限速度30km/hrのところを60km/hrで走行していたことを知っている。警察がきて、事情聴取を始めると、上司は警察に対して“30km/hrで走行していた”と答えている。あなたが警察に質問されたとき、どう答えるか、次のうちから選べ」という問題である。
① 正直に上司は60km/hrで運転していたと答える。
② 30km/hrで運転していたと答える。
③ よくわからない。見ていなかったと答える。
「日本人の何%が正直に①と答えるか、世界のビジネスパーソンはどう答えるか」という問題でもある。
日本はシンガポール、メキシコと同じ60%台であり、最上位の90%以上のグループには、スイス、米、加、スウェーデン、アイルランド、英、オランダが入り、最下位の30%台には韓国、ネパール、ベネズエラが入っていた。
我々が、組織のためにと呟いたとき、それは組織の中での自己保全のためではないかと考える必要があるのではないか。
本稿では、リスク管理と技術倫理の基本であるコンプライアンスについて考えることにする。なお、コンプライアンス以外のリスク管理および技術倫理については、続稿で考えることとする。
2.コンプライアンス
コンプライアンス(Compliance)とは、要求・命令などに従うこと、応じることを意味することから「法令遵守」とされることが多い。ここで読者への質問がある。
周りに人のいない交差点で
① 信号無視をして、警察によく捕まる。
② 信号無視をして、警察に捕まったことがある。
③ 信号無視をするが、警察に捕まったことがない。
④ 信号無視をしたことがない。
読者の何人かは、①~③を答えるかもしれない。ひょっとしたら④の答えが少数派かもしれない。
同じような問題がある。
周りに人がいない場所で
① 殺人をして、警察によく捕まる。
② 殺人をして、警察に捕まったことがある。
③ 殺人をするが、警察に捕まったことがない。
④ 殺人をしたことがない。
読者は、ほとんどが④と答えるであろう。
信号無視も殺人も、コンプライアンス違反に変わりはない。それでも、その反応に差が生じるのは、何故だろうか。図1に示すようにリスクはハザード(危険源)の大きさとハザードの発生確率の兼ね合いで決まる。2つの問題のハザードの発生確率(警察に捕まる確率)は、ほぼ同じだとしても、ハザードの大きさ(警察に捕まった時、どうなるか)は、信号無視より、殺人の方がはるかに大きい。読者は、意識する・しないに関わらず、リスク管理を行なっている。信号無視と殺人との差を危険源の大きさと捉えずに、悪の大きさと捉えることも可能であり、技術倫理でいう“線引き問題[3]”の応用と考えることも可能であるが、ここでは詳細を省く。
信号無視の問題に戻ってみる。状況は変えずに一つの条件「小学生の息子とその同級生が同乗」を加えると、多分、ほとんどの人が信号無視をしなくなる。
殺人の問題に戻ってみる。状況は変えずに一つの条件「小学生の息子が殺されそうである」を加えると、多分、かなりの人が相手を殺しても良いと思うかもしれない。(注:悪(例えば殺人)は絶対的に悪か、悪も相対的で、状況により殺人も許されるとするかという長い議論が倫理の世界では存在している)
ここまでは、個人の安全に関わる事象を危険源として捉えてきた。20世紀までは、組織の中で「安全」というときは個人の生死に関わる「労働安全」を指していた。組織の安全という時、それが組織の生死を指すとすれば、組織の生死に関わる危険源は何かを考える必要がある。
組織が巨大化し、技術が巨大化してくると、組織の行為による影響範囲は、組織の構成員に留まらず、広く一般市民に広がってくる。安全の概念を労働安全から公衆安全に広げたのは、20世紀後半から注目されてきた「技術倫理」「工学倫理」に負うところが大きい。これは、日本の工学系学協会が、こぞって倫理綱領・倫理規程を定めだした時期と一致し(日本土木学会は1930年代)、JABEE(日本工学教育認定機構)がその認定要件として倫理教育をあげた時期とも一致している。組織が公衆の安全を脅かした時、組織は、社会から退場を迫られるかもしれない。本稿第3章に示す事例をみると、これは明らかである。
技術倫理の第1ステップをコンプライアンスというと、反論が多くあると思うが、技術者の倫理のケースブック[4]のほとんど全てがコンプライアンスに関わるものであり、表1に示す、リスク顕在化の事例もそのほとんど全てが、コンプライアンスに関わるものである。また、かなりの事例に共通するのは「虚偽をなす」である。「法規則に抵触」する事項を「虚偽をなして」隠蔽すると、安全にほとんど係わり無い事項でも、ハザードの大きさが大きくなることが表‐1からも明らかである。この場合、図1のハザードの発生確率を発覚確率と読み替える必要があるが、発覚確率が如何に小さくとも、「虚偽をなす」ことが、組織の存亡にかかわるようになってきている。
表1 リスク顕在化事例
1997年 NEC防衛庁水増し請求
2000年 雪印乳業集団食中毒
三菱自工リコール隠し
2002年 東京電力原発データ改ざん
2003年 トヨタ整備士国家試験問題漏洩
2004年 関西電力美浜原発事故
2005年 JR西日本暴走事故
耐震強度データ捏造
2006年 ライブドア粉飾決算
パロマガス湯沸かし器事故
2007年 北陸電力臨界事象発覚
3.事例
事例を検討することにより、組織の持続にとって何が必要かを考えてみる。
3.1. 雪印乳業事件
6月27日 雪印乳業に大阪工場製の「低脂肪乳」で食中毒症状と苦情電話
6月29日 雪印が自主回収を発表
7月1日 雪印が大阪工場の製造施設で黄色ブドウ球菌を検出と発表
7月2日 大阪府立公衆衛生研究所が、黄色ブドウ球菌が作る毒素エントトロキシンを低脂肪乳から検出。大阪工場営業停止
7月4日 カルパワー、毎日骨太の回収開始
7月5日 発症者が1万人を超える。
7月6日 雪印社長が引責辞任を発表
7月9日 大阪市が「雪印が検出した菌は黄色ブドウ球菌ではない」と発表
7月14日 厚生省(当時)が大阪工場の総合衛生管理製造過程の承認取消
7月28日 社長他役員8名が退任
8月18日 大阪市、原材料の脱脂粉乳から、毒素エントトロキシンを検出
8月22日 大樹工場(北海道)の脱脂粉乳から毒素エントトロキシンを検出
8月23日 大樹工場、営業停止命令
食中毒の原因は次のようなものと推定されている。
? 大樹工場で3月に起きた停電事故のとき、貯蔵タンクが冷却されていなかった。
? 4月1日製造の脱脂粉乳に基準を上回る細菌が検出されたが、加熱処理で細菌を死滅させれば大丈夫と考えた。
? 加熱処理では細菌は死滅するが、細菌の作る毒素はなくならないことに、誰も気がつかなかった。
? この毒素の混入した脱脂粉乳が大阪工場の原料として使われた。
コンプライアンス違反としては次が挙げられる。
? 大阪工場では、品質保持期限をチェックせずに返品を再利用
? 大阪工場の屋外での調合作業(当初説明は、冷蔵庫内であり、これは虚偽の説明でもある)
? 大阪工場での製造工程の定期洗浄は未実施
この事例には、リスク管理に関する多数の教訓が含まれている。
? 知識(技術)の重要性…加熱処理で細菌は死滅するが毒素は消滅しないという知識の欠如。
? 技術者の倫理観…マニュアル違反を知った技術者は何をしたか。
? 情報伝達の重要性…記者会見では、社長が工場長に「君、それは本当か」と尋ねた。
? 事後処理の重要性…原因の特定が遅れると対策が立てられない。
3.2 チャレンジャー号事件
1986年に起こったスペースシャトル・チャレンジャー号の事故は、米国の宇宙開発史上、最大の事故の一つであると共に、技術倫理の最も著名な事例でもある。この事故が、技術倫理の事例として取り上げられるのは、事故原因となったブースターロケットの製造を行なっているモートン・サイオコール社(MT社)の技術者ボイジョリーが、大統領特別調査委員会に内部告発を行なったからである。
チャレンジャー号事件[5]を、時系列で整理すると以下のようになる。
? 1974年:MT社ブースターロケットの契約を獲得。
? 1976年:NASAはMT社のデザインを承認。
? 1977年:MT社、O-リングの問題に気づく。
? 1981年:Second Shuttle Flight後O-リング腐食発見。
? 1985年1月24日(打上げの約1年前):MT社のボイジョリーは、別のスペースシャトル「フライト51C」打ち上げ後の検査で、2つのO-リングの間のグリースが焦げているのを発見。これは、1次シールがその機能を失い、2次シールが、ブースターからの燃焼ガスを食い止めていたことを示していた。
? 1985年4月25日:別のフライト51Bの1次シールに問題があり、また、2次シールにも問題の兆候があることが判明し、NASAに報告。
? 1985年7月:MT社新型接合部の発注を受ける。
? 1985年8月19日:NASAでのO-リング問題の会議に、MT社も出席。この時NASA管理者がSRB(Solid Rocket Booster)問題の報告を受ける。
この間、約20回のスペースシャトル打上げが成功していたが、O-リングの問題は何度か起こっていた。
? 1986年1月27日:打上げ当日の気温が華氏18度と従来になく低いという予報があった。
ボイジョリー及びその同僚は、この低温で、O-リングの機能が失われ、乗組員の生命にかかわることを確信し、MT社のルンド技術担当副社長に打上げの危険性を訴え、彼はこれを理解した。
TV会議が、ケネディ宇宙センター、マーシャル宇宙センターおよびMT社を結んで行われた。ボイジョリーは、低温時にはO-リングが致命的影響をうけることを示したが、この効果を定量的に示すことができなかった。NASAは、MT社のキルミンスター副社長(ブースター担当)に打上げについての判断を尋ね、キルミンスターは、提示された技術上の判断がある以上、打上げ中止を勧告すると答えた。ハーディ(NASA)は、激しい反応をみせながら、MT社が反対するなら、NASAは打上げないと言ったが、キルミンスターは、データの再評価のために5分間時間が欲しいと言い、NASAとの通信を切った。
<MT社内会議>
ボイジョリーは打上の危険性を説明したが、メイソン上級副社長は、ルンド技術担当副社長に「技術者の帽子を脱いで、経営者の帽子をかぶれ」と命じた。ルンド技術担当副社長は自分の意見(打上げ中止)を覆し、打上げ勧告の決定は4人の役員でなされ、技術者には判断が求められなかった。
この間の中断は30分であった。
? 1986年1月28日:離陸後72秒でチャレンジャー号は爆発し、7名の乗組員の生命が失われた。
この事例から得られる教訓も多くある。
? 技術担当副社長は技術者の帽子を被り続けるべきである。ルンド副社長が最後まで打上反対を続ければ、爆発の悲劇は起こらなかった。
? 物事は結果から判断すべきではない。もし、チャレンジャー号が無事に帰還していたら、ルンド副社長の判断は正しかったことになる。
? 技術者は、定量的な説明をすべきである。もしくは、コミュニケーション能力が必要である。もし、ボイジョリーが、十分な定量的データでMT社上層部およびNASAを説得していたら、悲劇は起こらなかった。

3.3 事例から学ぶべきこと
事件後の雪印乳業は、その事業規模の縮小を余儀なくされたが、チャレンジャー後のMT社およびNASAは、組織の持続を果たしている。両者比較により、リスク管理上重要な事項が浮かび上がってくる。
(1) 技術系組織は技術が必要である。(MT社には、技術はあったが、雪印にはなかった。)
(2) 技術系組織には技術倫理が必要である。(雪印には、マニュアル違反、虚偽報告などがあったが、MT社にはなかった。)
(3) 組織内のコミュニケーションが必要である。(雪印には欠けていたが、MT社には、ある程度存在していたと思われる)
(4) 構成員は組織に期待されている役割を果たす必要がある。(ルンド副社長に期待された役割は、技術的判断を加味した経営的判断でなかったか。)
4.まとめ
本稿では、リスク管理および技術倫理の第1ステップであるコンプライアンスについて考えてきた。コンプライアンス(法令遵守)を考えることにより、ハザードの発生確率は低減し、リスク管理上有効である。また、技術系組織では、技術が、ハザードの大きさおよび発生確率の低減に果たす割合が大きく、リスク管理上も重要である。
次稿では、リスク管理に、コンプライアンス以外に何が必要かを、最終稿では、本稿で定義した組織が、リスク管理上の組織として、真に有効かを考えていきたい。
参考文献
[1] JIS Q 14001:2004, 環境マネジメントシステム-要求事項及び利用の手引, 日本規格協会 (2004)
[2] C. Hampden他, 21 Leaders for the 21st Century, Cambridge Judge Business School -2001
[3] C.E.Harris他, 日本技術士会訳, 科学技術者の倫理、その考え方と事例, P.143, 丸善 -2002
[4] 日本原子力学会倫理委員会編, 技術者の倫理ケースブック,日本原子力学会倫理委員会-2006
[5] 例えばhttp://www.jlhs.nhusd.k12.ca.us/Classes/
Social_Science/Challenger.html/
(平成19年8月9日)
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