保全社会学からの所感
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カテゴリ: 解説記事
『はじめに』
日本保全学会の下に保全社会学研究会があり、それに関与してきた。ジャーナリスト、それも元経済記者が、極めて科学的な領域である原子力を中心とした技術分野の問題に関わることには、能力の範囲からかなりの抵抗感があったが、一年以上に渡って、今、学会の抱える大きな側面に、保全、原子力と一般の社会、言葉を変えれば国民との間に「深い河」というべきものが存在し、そこに掛かる「橋」としてメディアの問題があるということを感じた。簡単に言えば原子力と一般国民の間にあるこの「深い河」が原子力に関わる様々な問題を喚起している大きな要因ではないかということである。この認識はもとより今になって出てきていたわけではない。従来からも指摘されてきており、今も続いている。しかし、「橋」としてのメディアの問題については最近、大きく変わってきているように思える。これは原子力に関与する学会などがメディアに対し、分かりやすく言えば、これまで泣き寝入りではなく、異議申し立てを始めたことによるものと思う。少なくとも意見を公表していくという姿勢に変化してきている。ある意味で原子力とメディアの間にいい意味での緊張感が出てきたものとも言える。当然、これによって原子力サイドにも、メディアのサイドにも微妙な変化を生じてきている。この変化が「深い河」を浅くする確固たるものとなることを期待し、ジャーナリスト、それも広くエネルギーに関わってきた立場からの所感を展開してみた。
『知識格差』
原子力集団は高度の知識を有する特別な存在である。これはまぎれもない事実なのだが、当事者・原子力集団にはこの自覚が一般的に低い印象を持つ。例えて言えば、高度な脳外科医手術を担当する医師集団とでもいえようか。一般的には、患者は余りその高度技術を知る必要がない。患者は原則、医師を信頼できるかどうかで判断をすればいいということになる。医療過誤の問題もあるが、個別問題であることが多い。原子力も同様な面を持っており、最近、「信頼」という言葉が原子力につきまとうが、それでも立地問題などを見れば分かるように、個別問題が全体の問題に巨大化し広がるという面が強い。原子力慎重派、反対派は個別の原子力を問題にしているのではなく、全体としての原子力に関連して疑問、ないし反対を表明しており、一般の国民も同様であるわけで、ここに巨大な社会という存在が浮かびあがってくる。原子力と社会の間には広範な緊張関係があるわけだが、この緊張関係の背景に知識の格差があり、それが事態の深刻さを冗長している面が多いのだが、一般的に原子力サイドにはこのところの意識が希薄ないしないという状況だったのではないか。ここに不幸な齟齬が生じる。「こんなことがなぜ分からない」(原子力)「何を言っているのかよく分からない」(一般国民)という図式を生み出し、問題を複雑化してしまう。そこで原子力の国民知識度ということが問題になるが、具体的な数値等がないので経験的な観測でいえば、一割程度が原子力の発電メカニズムを何とか理解できるという層がかなり厚い。これが教育の現場からの実感である。大学で原子力を含むエネルギー論を担当しており、毎年、学生に質問すると概ねこの程度となる。実例でいえばこんなケースがあった。最近の大学には定年後の社会人が増えてきており、その一人である。彼は70歳前。一流企業の元役員。その彼が「原子力は核分裂があり、その分裂時に同時に電気が発生する」と理解していた。核分裂は熱を取り出すため、蒸気をつくるため。発電原理は火力も、水力も、はたまた風力も基本的には同じ、と説明すると「初めて知った」と驚く。決して本人を軽視するものではなく、原子力は巨大な言葉のイメージとしての周知度は極めて高いのだが、そのメカニズムとなるとまた極めて低いというのが一般的な現状である。これをまず原子力サイドは十分に徹底して認識しておく必要がある。ところが「知識のない国民」という見方がこれまでは相当に原子力サイドにあったことは否めない。不幸な行き違いというほかない。責任を国民に転嫁することは論理的には正しいことではあっても、現実の問題の解決にはならないことを銘記するべきだ。まず、「原子力集団」は開かれた集団を目指すべきであり、一般国民の知識獲得を待っているのではなく、積極的に可能な限り、一般国民に働きかけていくべきだと考える。どのような細い「橋」にもせよ、それを掛けることが可能なのは原子力サイドであって、一般国民ではない。これは責任の所在の問題ではないのであって、現実的な実行の可能性の問題であることはいうまでもない。
しかし、一方でまさに現実の問題として原子力サイドからの一般国民への知識普及には限界がある。これまでの政府広報、電力事業者、原子力関係団体の血のにじむとも言える普及活動は残念ながら大きな成果をあげた、今後もあげるとは簡単には言い難い。無駄という言葉は避けなければならないとは思いつつ、それに近い状態が現実というべきかもしれない。こうしたことを考慮すると日本保全学会、あるいは原子力学会などが最近、「社会」を極めて強く意識してきたことは高く評価していいと考える。つまり、知識普及には「教育」が最大の手段ということにつながるからである。
『教育手段としてのメディア』
そこで教育手段が問題となる。一般的には教育が学校教育と社会教育に分かれるが、ここでは後者の社会教育。なかでもメディアを考えることにする。通常の社会生活のなかでは情報いう名の教育はメディアによることがほとんどという現状だろう。当方も長くこの分野に関わってきており、なお今も関わることもあり、メディアは原子力と一般国民の間の最大の「橋」と考えている。
「原子力サイドの知識不足」
この分野における原子力の歴史が浅いという事情もあるのだろうが、原子力サイドの社会、ひいてはメディアへの理解が不十分という面が目立つ。例えば「橋」(メディア)の形体の違い。同じ「橋」であってさえ、渡る場所次第で違いの結果(報道状況)が出る微妙さ、といったことに無頓着であり、メディアは全て同じという認識が強いように思える。またその「橋」がいかなる手法で造られていくのかといった細部への理解も低いのが現状と言えるのではないだろうか。
まずメディアも多様という問題。メディアも新聞、テレビ、ラジオ、雑誌など、それぞれに独特な報道姿勢がある。新聞は活字を通じての情報提供であり、あくまで比較の問題だが感情能力は余り高くない。テレビは映像主体で理屈の面が弱い分、感情に直接訴える能力が高い、などの特性を持つ。ラジオ、雑誌もそれぞれの特色を持つが、ここでは個人的な経験の範囲ということで新聞を主にテレビを従に、という形で論を進める。
『報道の本質』
報道に関わっては様々な定義がなされているが、本質のひとつは「表現」にあると考えている。「社会に対し有益な情報の提供」という大上段の定義を全否定するものではないが、現場の感覚のなかでは、いかに速やかにニュースを提供するかに、その本質がある。詳細の議論を置くと、「特ダネ」に収斂する。これは一般にかなり周知のことであるようだが、メディア内部におけるこの「特ダネ意識」はなかなか外部から伺いしれないほどの強烈な存在であり、ぞくっぽく言えば「記者の生命線」であり、突破できればまさに「勲章」であり、場合によってはその「勲章」は生涯の栄誉となって報道界という世界に限られるのだろうが、伝説として伝わるというほどの強烈な存在となっている。
むろん、伝説となるような記事は例外的であり、社会的にも限定的ではあるのだが、内部価値としては極めて高く、特ダネ意識が記者の根底的底流として流れていることは厳然たる事実としていい。この点については批判が多く、「メディアは社会に正しいニュースを送ることこそがその使命」という、極めて妥当な意見が示される。確かにこれは抽象的な表現としては極めて当然の指摘ではあるのだが、目の前に記事になる材料がある場面で記者のなかにそうした社会的意識があるかと言えば大きな疑問だろう。社会的使命はその結果と考えていい。
さらにこの「特ダネ意識」に関連しては、「記事は商品。少しでも新聞が売れるようにしたいのではないか」という批判が出る。商業新聞である以上、それも全面的に否定できるものではないにしても、記者意識のなかにはそれは皆無といっていい。大きな誤解となっている。「特ダネ意識」は名誉、社内競争のモチベーションと理解した方が正確だといえる。
某新聞社社長が連続二年して新聞界のノーベル賞ともいうべき新聞協会賞を受賞した後の会見で面白い見方を披露した。「当社は二年連続しての受賞だったが、それで新聞が一部でも増えたかというとそんなことは全くない」と語ったのだ。確かにあの記事がよかったから購読する。あの記事が嫌いだから購読しないということはある長い時間帯では出てくる現象ではあるのだろうが、それが記者の意識を左右することはないと断言できる。逆に言えば、記者は他社の特ダネに常時怯えているといっていい。ましてや「特ダネ」の反対である「特落ち」となれば、恐怖に近い。「特落ち」とは他社が全社報道しているのに自社だけが何らかの事情で報道していない、できなかった、ということで、「特ダネ」が名誉ということで言えば「特落ち」は恥辱という言葉がふさわしい。記者は他社の「特ダネ」、自社の「特落ち」を異常とも言える神経で警戒しているのが実情なのだ。記者をライオンに例えたアメリカのジャーナリストがいたが、一種の「動物的」な存在ということは言えよう。記者はニュースを求めることを本能とする動物。これで全てが表現できるわけではないが、一面、それもかなり重要な一面を示していることも間違いない。要約する形で言えば、この「特ダネ意識」は社内競争、そして対他社競争が基本になっているとしても大きな間違いはない。
ここに記者としたのは新聞記者であり、テレビについてはこれを「映像」に置き換えるとかなり似た面が出てくる。「あそこには絵(映像)があったが、うちにはない。やられた」とでもなるのだろう。この記者の本質の一面は変化しないのだろうか。変化は余り期待できない。一方でここから社会への重要な情報提供という極めて重要な報道の役割が出てくるのも間違いないからである。メディアの委縮は民主主義の崩壊につながるという指摘は正しい。中国、ロシアなどに見られる例がこれを雄弁に物語る。問題はこの報道の自由が乱用されていないかどうかという点だろう。
この点に関しては時折、週刊誌などがスキャンダル報道で「報道の自由」を標榜しているが、三分は認めることができても七分は開き直りの弁解に過ぎないことが多く、長期的には報道の自由を阻害していると思える。
これまで記者、報道の本質の側面を考えてみたわけだが、整理すると報道は社会に対する重要情報の提供を目指す一方で内部的には自社内での、あるいは他社との関係で極めて激しい競争原理にさらされているということができるように思う。
『ニュースとは』
そこでニュースとは何かが大きな問題となるのだが、ニュースは社会とメディアの相関関係のなかに成立していると思われる。ニュースが時代を作る一方で社会がニュースを作る。かつて記者になると教えられることのひとつに「犬が人を噛んでもニュースではない(当然)。人が噛んだらニュース(異例)」ということ。説得力があった。しかし、今やこれは間違いなく、死語だ。現在「犬が噛んだら間違いなくニュース」となる。社会が犬の放置を認めず、飼い主が責任を問われる。社会の在り方がニュースを変えたということだ。こうしたニュースはほかにも紙面を賑わしていることは承知の通りだ。
従ってニュースとは何かは安易に定義できない面もあるのが、一種の傾向があることも間違いない。時代の雰囲気とも言えようか。時代の価値観とも言えようか。分かりやすいという例では「食の問題」がある。中部地方の和菓子と中国産餃子を例に考えてみる。前者で問題は賞味期限切れ。後者は薬物混入。前者には「安全」の問題はほとんどなかったのだったが、社会の、メディアの指弾は厳しく、操業停止にまで追い込まれてしまっている。また、後者も事実上、操業停止、いや中国のメーカーは廃業までに至っている。「安全」という本質の面から見ると格段の違いがあるのだが、メディアの対応が余り差がない。
前者は「信頼の裏切り」という抽象的な価値感であり、後者は「健康」という実質的な価値観で、「食」が共通項であることで、混乱が生まれてきてしまっている。メディアも、社会もその混乱を意識できない状態に陥る。「食関連は全てニュース」ともいうべきトラウマとも言える。
この責任問題は多くはメディアにあるのだろう。意図しての誘導とまでは全く思わないが、メディアに「食はニュースになる」という前提が成立してしまうとその後、各社は一斉に同じ価値観のニュース判断に走り出してしまうことになる。
この阻止は事実上、不可能だ。メディアの一部のなかに、これは問題という意識があっても、「当社は安全に問題のないケースはニュースにしない。妥当、合理的な判断で対応する」とはならず、多分、「あの社が扱う。当社も」となっていくのが実情だ。後はスパイラル的に展開していくことになる。ニュースを追い駆けるライオン軍団の形成ともいえようか。
これは日本のメディアの均質性によるところが多いということに由来する。日本の新聞は社説などによる姿勢の違い、記事の扱いなどの面で、差があるにはあるのだが、決定的という差はニュースについてはほとんど見られない。全国紙、地方紙を含めて、クオリティー紙の顔と大衆紙の顔のふたつを持つという独特の紙面を形成しているところが特色。従って大きな違いを強調するようなことは難しくなっている。従ってニュースは一定方向に流れだした場合には一様なニュース価値判断で突進することになり、今でいえば軽微とも言える「食」の問題は大ニュースになる。簡単に言えば「食」はニュースの宝庫に成りあがってしまう。それでも「食」の問題には、ある仕切りがあり、線引きが可能だ。賞味期限切れにしても薬物入りにしても法律を含む規制違反があり、この点は免れ得ないから対応もある程度可能で、汚染米で被害を受けた菓子メーカーなどを除くと当事者責任ということができる。ここが原子力との違いだ。
『原子力報道の場合』
そこで本論の原子力に関わる報道としての「橋」を考えていく。これは原子力と社会を結ぶもの、「橋」の機能がメディアの負うところ大であるからであり、日本保全学会の保全社会学研究会もこの点に着目して検討を進めている。これまでに個人的に見えてきた視点から展開していく。新聞は毎日、新書一冊分に相当する活字情報を提供している。ニュースがなければ新聞は成立しない。その本質は先に触れたがニュースに関わるメディアと社会の合意なのだが、分析してみると巨大なものに対するアンチテーゼという面が大きく存在する。いうところの「メディアの使命は反権力」という価値観である。あるいは「社会正義の実現」とも言えるのかもしれない。例えば「食」の問題にしても、分解すれば中部地区の和菓子の問題は微細とも言えるのだが、「食」という巨大な現代価値観からすれば、その微細はメディアという拡大鏡を通して巨大化していってしまう。これを原子力に置き換えて考えてみよう。原子力は実際の存在が巨大であるうえにイメージも巨大であり、ひとつの権力の象徴的なあり方になってしまっている。それも複雑なメカニズムと放射性物質問題という単純には分かりにくい存在。原子力の問題はその存在からして現状では「ニュースの宝庫」ということなのだ。原子力関係者はその是非を別にこの点を肝に銘じておくことが必要不可欠だろう。身近にあり、十分承知しているということから一般国民も同様とみている趣が原子力関係者に感じられる場面がある。これは「社会への認識不足」ということであって、その是非は別にして、今もって問題の多い点と思える。
従ってここで言えることは、高度技術的な世界とそれとは隔絶したところにある一般社会があり、まず、原子力サイドがどう、この隔絶の距離を縮めるか、すなわちメディアにどう対応していくかということになってくる。いわば「渡し橋」をいかに再構築していくか、ということで、その一歩としてメディアの理解ということが登場してくる。
『原子力報道体制の複雑さ』
研究会での検討過程で明らかになったことのひとつに原子力サイドはメディアの報道内容に大きな不満を感じながらもメディア側の取材体制の実情といった基本的なことに関しても余り知識蓄積がなったことがあった。
その一つが事故・事件に関しての面。原子力に関わる問題には大まかに言って、新聞社の場合は四つのセクションが関わるのが一般的だ。立地点の支局、通信部などを抱える地方部、大きな事故・事件ともなれば社会部が関与、技術的な問題で科学部。そして政策、あるいは関係企業、組織の問題の側面が経済部が関係してくるという状況。当然、この間では微妙な調整があるが、一つの誤解はこの調整が緊密であり、ひとつの報道体として整合性が高いというように受け止められているということだろう。最近でこそ科学部が事故関連の取材に大きく関与してくるケースが増えたが、以前は大事件ともなれば、社会部が全面に出てくるケースが多かった。理由のひとつに伝統という面がある。事故の紙面は社会面、大事故であれば一面となるが、社会面は社会部の支配下にあり、自分たちの縄張りという意識の底流がある。一方、科学部には科学面はあるがニュースを日常的に提供する紙面を持っていない。こんなところに微妙な問題が出てくる。これは地方部も同様。地方版を持つが、社会面は言ってみれば管轄違いとなる。経済部は確かにエネルギー政策、企業の問題など、独自の経済面で対応できるが現象としての事故に直接関わることはできない。社外から見る限り、これらは一体として統一したものと見えるのだろうが、案外、混沌とした状況にあることを知っておく必要がある。これを一体化したものとして受け止めるとある種の誤解が生まれる。
分かりやすい例では環境問題もそのひとつだ。これも原則的に社会部が担当、科学部が関与という形。そこで低流に「環境保護は善」「エネルギーは存在として悪」が表面化しやすく、原子力もその範疇にはいりやすい。具体的にはいまだかつて社会部記者で原子力を是認した記者は身辺に一人も知らない。
さらに指摘しておく必要があるのは、メディアには知識蓄積能力が低いという宿命的な点があるということである。専門的であっても専門ではない。むしろメディアは素人集団と理解しておきたい。情報の伝達者、すなわち「橋」なのだが、面倒なことに単純な物理的な「橋」ではなく、意識を持つ「橋」とでもしたい。それであるが故に原子力報道に関連していえば、反対の意識を持てば、記事はその方向を内在した記事となり、その内在は紙面化の段階でも共鳴する。これは各社の紙面比較で歴然だろう。日本の新聞を「金太郎飴」という前述と矛盾するようだが、傾向値、あるいは方向性としてのことであり、必ずしも矛盾ではない。
この一種の偏向とも言うべき状況が顕著になったのが、中越沖地震に絡んでの柏崎刈羽原子力発電所の問題であった。典型的な事例ということができる。またこのケースをきっかけにして原子力に関わってのメディア批判が全面に出てきたということでもこの問題は象徴的だった。ようやく原子力サイドもこの問題に単に内部的な不満を高めるだけではなく、メディアに対して具体的な異議申し立てともいうべき姿勢を示し始めたように思えた。
柏崎刈羽に関する報道上の問題は大きくは二面であった。具体的にあげるとひとつにはNHKの執拗ともいうべき変圧器火災の映像報道。それに朝日新聞の誇大ともいえる放射性物質の漏洩(以下同じ)問題に集約できる。社会的にはその結果としての風評被害という面も忘れてならない。
このふたつのケースに重要なメディア理解のカギがある。テレビにとって映像は命である。映像のあるなしは決定的な要素だ。従って劇的な被写体があることは「動物にとっては好餌」というほかない。これは新聞の写真にも共通するが、静止と画の違いはある。映像のないテレビは気の抜けたサイダーのごときもの。一方、新聞は文章であり、迫力に差は出るが一定の情報を伝えることが可能だ。
そこからNHKはいささか常軌を逸しての長時間の火災報道となったと理解できる。原子力というニュースの宝庫。視聴者の全員が関心を持っている。地震の「被害」でもあるうえに、「火災」という絵画的な迫力も加わる。テレビ報道の論理としてその姿勢の方向が定まることは必然ともいえよう。これを問題視することも可能だ。「原子力の安全には全く関わらないのになぜ、垂れ流しのように延々と実況で放送するのか。あたかも放射性物質があの黒煙のなかに含まれているかのように」と。もっとも意見だが、原子力関連施設の火災は事実であり、NHKが間違った報道をしているわけではない以上、この意見は参考に止まる可能性が高い。
そこで問題は東京電力に戦略的広報の姿勢が欠如していたのではないという問題が出てくる。さらに言えば東電関係者の、特に原子力関係者の専門的油断という面が問題となる。事後の取材で関係者から「とにかく原子炉は安定的に止まったのでほっとしてしまった。NHKの報道などまで気が回らなかった」ということを知った。ここが大きな問題のひとつとなる。原子力関係者のメディア問題への認識不足とするほかない。関係者は放映中に「火災による放射能の周辺への影響は皆無な施設」ということを連絡すべきであったのだが、それが出来ていなかった。NHKに責任を求めるのはいいとしても原子力サイドにもできることはあったのだと思える。
朝日新聞の放射性物質漏洩問題の報道はどうか。これは基本的には朝日新聞としての報道姿勢ということが背景にあると考えられる。それを置くとしても「漏洩」の言葉が報道上の決定的とも言える側面を持つことは事実である。漏洩は極微量。健康被害には全く関係のない量であったのだったが、原子力を「絶対」の存在としてしまうと、この「漏洩」は見過ごすことができない巨大問題に大転換してしまう。事実、原子力反対の立場の人たちとの懇談の場である女性に「どんなに微量であっても漏れたのは事実でしょう。一円なら盗んでもいいという論法ですか」と迫られて窮した。「いいとは言えないが安全上問題のない範囲」としても納得はなかなか得られなかった。問題に関連してはある雑誌の記者座談会に参加した。雑誌社によると朝日新聞は参加を遠慮ということだったという。毎日新聞の記者は「朝日はやりすぎた。ここをどう説明してくれるのか。楽しみにしていたのに」と残念がっていた。毎日の記者は科学関連の記者であり、社内の一部から「この問題はもっと大扱いすべき」との意見が出たそうだが、きちんと反論して妥当な扱いになったという。新聞社内の微妙な力関係を含めての実情が覗けたようだ。必ずしも記事を大きくという単純な論理だけがメディアにあるのではないということになる。一方でケースバイケース。どちらかと言えば例外的なケースということもできるかと受け止めている。社内会議の結論が合理的である場合もあり、強硬な主張が不合理にまかり通ってしまうような状況といえるのかもしれない。
『言葉の問題としての原子力』
原子力は残念ながらメディアという「橋」を通しての一般国民への伝わり方は「事故」あるいは「事件」を通してのことが大部分である。一般国民は原子力をこの二つの面でのみ、その存在を知るというのが現状である。
東京電力のデータ改竄事件を今も多くの一般国民は「事件」ではなく「原子力事故」と変質させて記憶しているし、中越沖地震の変圧器火災も原子力事故となってしまっているものと思われる。当然、「橋」の在り方が問われることになるが、原子力サイドに可能な対応はないか。今後の問題はここに集約する。
第一の方法は先にもあげた一般的なエネルギー教育の普及というほかに、日本保全学会を含めての関係団体の「橋」への積極的な働きかけというべき行動が必要になる。その場合に重要なことに「言葉」の問題がある。原子力の関連したことに「改竄」「隠蔽」などの言葉が付随するようになると目下の状況では「橋」の悪い方向への巨大化は避けられない。ひとつの仮説的な感想としてまでのことだが、原子力の関係者の世界は微分積分かそれ以上の世界。一般国民はせいぜい四則の世界。場合によってはその四則もない感情の世界。この間にあるメディアはどうだろう。微積の世界をのぞいている四則の世界にあり、機能しての「橋」という「解釈の役割」担うといったところだ。前にも指摘したとおり、ここに関与していけるのは四則をも知る原子力サイドでしかありえない。一方、四則の世界は「橋」を通してのほかに微積の世界に近づくことすらできない。となればこの「橋」の改築が大きな意味を持、その際に極めて大事な問題として「言葉」が出てくる。これに関連して評価したいのは、日本保全学会がまとめて論点評価のなかで打ち出された「安全な事故」「危険な事故」の概念がある。この概念は食の問題にも極めて有効と思える。中部地域の和菓子問題は「安全」の範囲であり、中国餃子は「危険」に入ると考えると問題のあり方が合理的になってくる。しかし、問題はこれをメディア「橋」の部分がどう受け止めていくか、ということになるが、これはいい意味でのメディアとの緊張関係を形成していくしかない。この点が中越沖地震を契機に出てきた原子力サイドとメディアの対立とも対話とも言える状況ではないだろうか。
NHKの垂れ流し放映をめぐる論議。六ケ所をめぐる隠し撮りを疑われた朝日テレビの報道姿勢など。さらには表面化していないが年末年始のNHKの原子力否定を示唆するかのような自然エネルギー礼賛放映問題など、原子力サイドからの具体的な働きかけがあった。成果というべきかはどうか明確ではないが、好ましい緊張関係が生まれてきていることは間違いないない。それでもメディア側の姿勢は曖昧。きちんと非を認めることはないために原子力サイドからの不満も聞かれるが、一部修正があるなどの具体的な成果とも言える結果も導きだしている。メディア側に「しっかり見守っている」という緊張感が伝わったことは間違いない。体験的に言えば、かつて記者として働いていた新聞社の発行部数は1000万部を超す。自分の書いた記事は一割の人が読んでくれるだけで100万人。記事は書くことは相当に緊張する。それでも誤まる。抗議も来る。この緊張は次の記事、報道への厳しい構えとなる。
こうした際に「言葉」が重要であり、批判に加えての説得力が欠かせない。基本的にメディアは大きなことは訂正しない。例えばNHKの自然エネルギー報道。NHKの対応は誤解を招くという抗議に理解を示したものだったとされるが、内容の訂正はしていない。事実上不可能なケース。全く事実に反するということでない以上そうなってしまう。一方で細かな数字の間違い。固有名詞の間違いなどには新聞を含めていささか過剰とも言える反応を示す。逃げ場のない。言いわけのできない間違いには過敏だ。テレビ朝日が「フィンランドを脱原子力」としたことを訂正したのはその一つの例だろう。ここに問題は残るのだが、それでもしっかりした意見はメディア側に蓄積される面がある。変化もありうる。その持続性に疑問もあるが、事実でもある。具体的な例で言えば、人権報道などに関わっては、過剰なほどに変化してきており、報道の自由の制限ではないかと思わせるようなケースもなくはない。
現在のところ、原子力に関連しては「地方版のベタ記事にもならないようなボヤも全国版」という状況だ。これを社会化して「安全な事故」、この場合は「安全な火事」ということに転換していくことができれば、問題は合理的な形に落ち着く可能性は出てくるものとなしとはしないだろう。
もちろん一朝一夕でメディアを変化させることなど可能であるはずはなく、日常的な永続する活動が必要だ。どういう形にしていくか具体案は持たないが、将来的には、例えば日本新聞協会、あるいは民放連といった公式な機関との話し合いの場なども検討されていいのではないか。それに日本保全学会が実施している論点評価の全国メディアへの配布といったことも継続されていくことで大きな意義を持つに違いない。一部からその効果への疑問も出されているが、傍観していることに比べれば、言うまでもなく「有効」に繋がる可能性があることは確かだ。
人権問題などに関連してはメディア内の報道のあり方に関しての議論は相当に行われ、報道姿勢の変化という形で表れてきている。被害者などからの働きかけの結果の面が多いと聞く。同様に、とまでは簡単には言えないまでも、反対・賛成の不毛の乖離を多少とも改善する手立てになるように思える。その際にやはり重要なのは「言葉」。原子力関係者には説明能力、解説能力がどうしても欠かせない。案外単純なことで出来の悪い子供に「馬鹿」としかるか、「もっと勉強しろ」というかで違う。相手の受け止め方が違うということを承知しておきたい。舌禍事件ともいえるようなケースが少なくない。その意味で「安全な事故」「危険な事故」の概念をみだしたのは今後のこの言葉の展開を期待して、「大きな成果」となるような予感すらしてきている。大げさに言えば「社会は言葉」で成り立っているわけで、原子力関係者には、この言葉への、表現への関心を是非高めていってほしいと考える。
『最後に』
所感ということで散漫な内容となった。四則に近いところにあるということでとご寛恕をいただきたい。加えて世間の批判、指弾という艱難に耐えて努力を続けられてきた、最も尊敬するに値する原子力関係者の方々への暴言ともいう指摘もお許しいだたきたい。日本のメディアにおける原子力の難しさを多少とも理解していただければ幸いである。日本保全学会の保全社会学研究会というところに関与、原子力を見る目が変わった一ジャーナリストの感想として読んでいただきたい。研究会は継続中で、今後、さらに検討を深めている。対応の具体策を含めての方向性がまとめられていくだろう。それにしてもの日本の原子力の状況。学会ではこれを山本七平氏のいう「空気」として、迷走状態の打破を目指している。個人的には「日本的(膠着)状況」としていたのだが、過日、朝日新聞の元論説委員で原子力も担当していた同僚に会い、「朝日新聞はどうして反対の一枚岩なのか」と聞いてみた。答えに驚いた。「空気ですよ。そうなるであるようになってしまう」。「空気」。必ずしも論理の結果ではないらしい。となれば保全学会の「空気打破」はまさに正鵠を射ていたことになる。ならば課題はその手法となるわけだが、この点、若干の示唆に止まってしまった。宿題としたい。
(平成21年2月9日)
保全社会学からの所感 新井 光雄,Mitsuo ARAI