原子力発電に関するリスクコミュニケーションのための放射線情報

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カテゴリ: 第10回
1.はじめに
日本国民が原子力発電に不安を抱く背景には、広島・長崎を起点とする冷戦時を通して培われた“核戦争勃発による地球規模での文明の崩壊と放射性物質による広域汚染のイメージ”がある。 地震国日本では、 このイメージは地震が原因で原子力発電所から多量に放射性物質が放出され広域汚染が引き起される不安に結び付いていた。 福島第一事故では地震による津波によってこの不安が現実になったが、“放出された放射性物質によるがんの心配は実質ない”というのが世界的な専門家の見解である[1,3]。この意味するところを原子力発電の保全に関わる専門家・技術者は理解し積極的に説明して行かなければならない。なぜなら、21世紀グローバル社会における中、長期的なエネルギー資源獲得リスク・気候変動を含む環境悪化リスクを総合的に検討すれば、エネルギー自給率約5%の我国にとって原子力発電の維持は、ベストミックスの観点から必然となる。また、原子力発電に関するリスクコミュニケーションが成立するためには、最新の放射線の生体影響に関する研究成果の理解が必要である。この観点から、本発表では、細胞レベルの放射線のリスクをその他の原因で生じる細胞レベルのリスクと対比して検討できる情報を提供する。最初に、進化の過程で獲得された生体の防護機構(抗酸化分子生産、DNA修復、細胞死/アポトーシス、免疫機構)が、放射線、紫外線、ビールス、ウイルス、喫煙で生じるフリーラジカル等の発がん・健康障害因子に深層的に機能することで人体の健康が維持されていることを、この分野の最新学術情報に基づき概説する[1~3]。次にこれらの知見に基づき理解できる、人・動物の“放射線線量率(Gy/min)-がん未発症線量(Gy)”データの分析結果を利用した低放射線線量率(Gy(mSv)/year)環境での人体に対するがんリスク評価法を紹介する[4]。その評価法に基づき、“チェルノブイリ事故での生涯線量(70年間)0.35Gyの制限値も福島第一事故後の現在の制限線量率20mGy/yearも実質的リスクは無い”ことを説明する。
2.DNA損傷等に対する生体の防護機構
ICRP Publication 103 (2007)のPrincipal conclusions and recommendations(pp.143-144)では、The following summary statements relate largely to
health effects attributable to radiation in the dose range up to around 100mSv(as single or annual doses) for the purpose of radiological protectionと断って、・For the induction of cancer and heritable disease at low doses/low dose rates, the use of a simple proportionate relationship between increments of dose and increased risk(the Linear No-Threshold (LNT) model) is a scientifically plausible assumption ; uncertainties on this judgment are recognized. ・A dose and dose-rate effectiveness factor (DDREF) of 2 recommended in ICRP Publication 60(1991b) should be retained for radiological protection purposes; the effect of introducing the possibility of a low-dose threshold for cancer risk is judged to be equivalent to that of an uncertain increase in the value of DDREF.”などと記述している。しかし、この意味するところを専門家以外の国民が理解することは極めて困難であり、100mSv以下の低線量であってもリスクはあると受け取ってしまう。
医学者・植物学者であったパラケルスス(1493-1541)は、「毒はあらゆるものの中に存在し、毒のないものは何一つ存在しない。毒になるか薬になるかは投与量(率)が決める」と述べている[1]。私達の生命維持のためには, 通常有害物質と見做されるミネラル類(無機イオン・無機化合物)、 即ち, カルシウム, リン、塩素、カリウム、硫黄、ナトリウム、マグネシウムの適量摂取は不可欠である。同様に, 通常は毒物に分類されるヒ素、 カドミウム、および鉛も極めて少量だが必要である。人体に対するこの事実は、リスクは摂取量(率)によることを示している[5]。放射性物質対してはどうか。放射線のリスクも線量率に依存することを明瞭に示す内部被ばくデータがある。20世紀前半、時計の文字盤にラジウムを含む蛍光塗料が用いられ暗闇でも数字の判読が出来るようになった。作業従事者は筆先を唇で整えて繊細な作業を進めた。その結果、長時間に亘り体内にα線を放出するラジウムを取りこんでしまった。ラジウムはカルシウムと同じアルカリ土金属であるため骨に取り込まれる。この結果、累積線量が10Gyを超える作業者191人のうち49人に骨肉腫が発症した。一方、累積線量が10Gyを下回る1339人には骨肉腫は発症しなかった。原爆のような瞬時(高線量率)被ばく(~1×107 Gy/min)では10Gyは致死量であるが、長時間に亘っての低線量率の被ばく(4.9.10-7 Gy/min)では発がんのしきい値は10Gy程度である[1]。
ここで、放射線による細胞内のDNA損傷(がん発症の出発点)には、放射線がDNAを直接損傷させる場合と、放射線が細胞内の水に作用して反応性の高いフリーラジカルを発生させDNAを間接的に損傷させる場合の二通があることを説明する。放射線のエネルギーを付与された細胞内の水はイオン化と励起を生じ、フリーラジカルを作り出す。その反応過程は、2H2O→H2O+ + e-aq + H2O *、H2O+ + H2O → H3O+ + HO・、H2O* → H・+ HO・となる。ただし、e-aq は水和電子、H2O* は励起水分子であり、e-aq、H・およびHO・がフリーラジカルである。放射線起因のDNA損傷の大部分はヒドロキシルラジカル(HO・)による[2]。また、生体系に常時取り込まれている酸素はそれ自身がフリーラジカル(活性酸素)と言って良く、細胞内のDNA・生体膜損傷等を引き起こすフリーラジカル反応の主要促進因子である。上式で発生した水和電子に関連して述べれば、生体内に常時存在する酸素と反応しスーパーオキシドラジカル(e-aq+O2→O2-・)を発生させる。当然、スーパーオキシドラジカル(O2-・)もヒドロキシルラジカル(HO・)と同様に放射線起因の間接損傷に関与する[2]。
周知のように、放射線以外にたばこの煙に含まれる有害なフリーラジカルも細胞内のDNA損傷を引き起こす。加えて、生体は生命を維持する化学反応過程で
Fig.1 Defense in depth in human organism 活性酸素の生成抗酸化物質による活性酸素の除去正確なDNA修復不完全修復・誤修復アポトーシスによる潜在的がん細胞の除去免疫系によるがん細胞の除去疾患としてのがんの発症がん細胞の増殖細胞がん化がん化につながる突然変異の蓄積DNA損傷内因性・外因性発がん因子身近な発がん因子:フリーラジカル(活性酸素, 遊離基)、タバコの煙を含む発がん物質、ウイルス、紫外線~50mSV, 50~100mSv50~100mSv, 100~mSv100~mSv機構の機能以上の負荷・加齢等による機構の機能の劣化1特別視される発がん因子:放射線
フリーラジカルを作り出す。ウイルス・バクテリアも含めたこれらのがん・健康障害因子に対する人体の深層防護機構の理解が最近の研究で大きく前進した[1~3]。特に、放射線に対する防護機構については、Tubiana らが167件の研究成果に基づき2009年に解説を行っている[3]。Fig.1に進化の過程で人体に備わったフリーラジカル反応等の内因性発がん因子・放射線、紫外線、ウイルス等の外因性発がん因子に対する深層防護機構を図式的に示した。08~10年度文科省原子力基礎基盤戦略研究イニシャティブの共同研究者であった放医研 酒井一夫の防護機構図(PPT)に、各機構が低線エネルギー付与放射線(X線、γ線、β線)線量に対して有効に機能する範囲をTubianaらの論文[3 ]から転記した。哺乳類の細胞実験で得たデータである。フリーラジカルは細胞内で生産される抗酸化物質(分子)により除去されるが、このプロセスはフリーラジカルによる損傷に刺激されている可能性がある。また、細胞内のDNAの塩基損傷・1本鎖切断損傷の修復は通常ミスなしに行われるが、2本鎖切断損傷のDNA修復はミスが起こり得る。しかし、この種のミス(突然変異の発生・蓄積も含めて)が生じたDNAは細胞死/アポトーシスにより細胞ごと除去される。さらに、突然変異の発生からがん化が進行する過程では免疫機構が機能する。このような人体の深層防護機構が十分に機能する範囲では、私達の体はフリーラジカル・紫外線・ウイルス・バクテリア等に対してと同様に、低い線量率の放射線に対しても健康が維持される。即ち、低線量率の被ばくに対してガン未発症のしきい値がある[1,3]。
3.放射線線量率に対するがん未発症線量
Tanooka[4]は、1969年から2005年までに公表された56件(5件は人体、51件はマウス、ラット、ドッグ)の研究成果に基づき、放射線線量率(Gy/min)-がん未発症放射線線量(Gy)の関係を整理した。周知のように、Gyは被ばく量の単位であり、被ばくした生体の被ばく部分の1kg当たりに吸収された放射線エネルギー量を表し1Gy=1J/kgである。実験条件が異なるため、全身照射・部分照射/ Low LET(Low Linear Energy Transfer(低線エネルギー付与)照射・High LET(High Linear Energy Transfer(高線エネルギー付与)照射を組み合わせたカテゴリーで分類しているがデータは分散する。しかし、データに基づく線量率の回帰線は明瞭な傾向を示しており、線量率が低下するほどがん未発症線量は増加している。即ち、線量率が低下するほど生体の深層防護機構が余裕を持って機能するため、がん未発症線量(しきい値)が上昇することが分かる。Tanookaは、更に原爆被ばく者のデータを含む3件の人体データと動物実験データの回帰線との関係を分析し、動物実験データの回帰線は“安全裕度を大きく取った人体に対するがん未発症線量”として活用できることを説明している。動物実験データの回帰線を人体に対するがん未発症線量とする根拠は次の事実による。原子爆弾の高線量率(~1×107 Gy/min)での人体に対する白血病未発症線量0.2Gyは、中線量率(~1×101 Gy/min)の動物(マウス)の回帰線と同レベルである。核爆発実験(広島・長崎と同程度の線量率~1×107 Gy/min)で被ばくさせたマウスのデータでは、同じ0.2Gyで下垂体等(白血球生産等に関わる内分泌腺)に顕著な腫瘍の増加が観察されている。がん未発症線量は高線量率ほど低下するので、こ
の比較が意味することは、同一線量率に対する人体の白血病に対する耐性は動物(マウス)に比べて十分高いということである。同様に、人体のα線による肝臓がんのデータ(1.1×10-7Gy/min)では、未発症線量は2Gyであるが、同一線量率の動物実験の回帰線の値に比べて充分大きな値である。すでに説明したようにラジウムによる骨肉腫(4.9.10-7 Gy/min)の未発症線量は10Gyであるが、この値は動物の回帰線に対してさらに余裕がある大きな値である。
最後に、Low LET(Low Linear Energy Transfer(低線エネルギー付与)のγ線、β線、X線)の回帰線に注目し、チェルノブイリ・福島第一事故の線量率に対するがん未発症線量を説明する。インド南西部Kerala州の高放射線線量(γ線)地域の7万人の調査結果では、生涯線量(70年間)が0.48Gy(線量率1.3×10-8 Gy/min,~7mGy/year)であるが、がんの増加が認められていない[4]。中国広東省陽江(Yanjiang)県高放射線線量(γ線)地域の12.5万人の調査結果では、生涯線量(70年間)が0.21Gy(線量率5.7×10-9 Gy/min,~3mGy/year)であるが、がんの発生率は対照地区に比べて増加していない[4]。チェルノブイリ事故では、生涯線量(70年間)が0.35Gy(年間平均~5mGy/year)を超える地区では住民疎開が行われた。この制限値0.35Gyは、Kerala とYanjiang の生涯線量の間にあり、がん発症率が増加する値ではない。福島第一事故では現在線量率20mSv(mGy)/yearが制限値とされている。この制限値の環境に継続して生活する場合、半減期2年の134Csを無視し、かつ137Csの半減期を30年ではなく35年として、0~35年間、35~70年間の台形計算で保守的に求めた生涯線量(70年)は約0.79Gy(平均~2.1×10-8 Gy/min)となる。この値はKeralaの1.65倍であるが、同一線量率での回帰線の値 約3Gyに対して十分小さい値である。即ち、Tanookaの分析方法に基づけば、現在、線量率20mSv(mGy)/yearの環境は、発がんリスクは無いと評価できる。Tanookaは、同論文で更に一般に関心が高い宇宙ステーション100日滞在では太陽からの陽子線等が支配的であるため、回帰線(Whole body High LET)との差が小さいこと。最も高い線量を想定したCT(X-ray Computer Tomography)診断では、回帰線(Partial body Low LET)と比較して1桁の余裕があることも報告している。
4.まとめ
放射線の人体に対する影響も、経験則としての常識である「毒はあらゆるものの中に存在し、毒のないものは何一つ存在しない。毒になるか薬になるかは投与量(率)が決める」に従う。即ち、進化(環境への適用)の過程で人体に備わった“内因性発がん因子・外因性発がん因子に対する深層防護機構”が放射線に対しても機能する。本発表ではこの観点から、放射線線量率(Gy/min)-がん未発症線量(Gy) のデータ分析に基づく、低線量率(Gy(mSv)/year)環境での人体に対するがん未発症線量の評価を紹介した。
参考文献
[1] W. Allison: Radiation and Reason, York Publishing Services Ltd (2009) (ウェード アリソン(峯村俊哉訳): 放射能と理性、徳間書店(2011))[2] B. Halliwell and J. M. C. Gutteridge (松尾、嵯峨井、吉川訳):フリーラジカルと生体、学会出版センター(1998)[3] M. Tubiana et al.: The Linear No-Threshold Relationship Is Inconsistent with Radiation Biologic and Experimental Data, Radiology, Vol.251 (No.1), pp.13-22(2009) [4] H.Tanooka : Meta-Analysis of Non-Tumour Doses for Radiation-Induced Cancer on the Basis of Dose-Rate, Int. J. Radiat. Biol., Vol.87, No.7, pp.645-652(2011) [5] L. P. Eubanks et al. as a project of the American Chemical Society (廣瀬千秋訳): 実感する化学(下巻)、エヌ・ティー・エス、pp.258-261 (2006)


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