原子力発電をめぐる訴訟について

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カテゴリ: 第13回
1.福島事故で判断の潮目が変わる
福島原発事故後、原発の運転差し止めをめぐる訴訟や仮処分では電力会社が敗訴する例が相次いでいる。これらの司法判断の背景には科学技術をめぐる不確実性への対応をめぐる社会的なコンセンサス形成の正当性と手続きの妥当性や、世の中の規範や価値観を調整する回路の不在の問題がないだろうか。
1.福島事故で判断の潮目が変わる
原子力発電所の建設や運転差し止めをめぐる訴訟はこれまで約20件が結審し、約30件が係属中である。なお、福島原発事故が起こる前までのほとんどの司法判断は、 国や電力会社の判断を追認してきた。その最初の判例であり、その後の判例の先例となったのが、1992 年に確定した伊方原発の設置許可をめぐる最高裁判決である。 最高裁はこの判決で原発の設置許可をめぐる裁判においては司法自らが安全評価を行って判断を下すことを避け、司法判断は行政庁などが行った調査審議や判断過程において看過し難い過誤や欠落がなかったかどうか、さらにはその判断が現在の科学技術水準に照らして不合理な点がないかどうかにとどめるとした。行政庁の裁量権を大幅に認めたこの判決は、原発の安全性をめぐるその後の訴訟の行方を大きく主導する。 しかし2011年に福島原発事故が起こり、原発をめぐる司法判断は揺らぎ始める。2014年から2016年にかけて福井地裁と大津地裁は、大飯原発と高浜原発に対し運転差し止めの判決や仮処分決定を下す。福島原発事故が起こるまで、国や電力会社が敗訴した例はわずか2例しかなかったが、事故後の5年間で電力会社が敗訴した例は3年にのぼった。
その最初の例となった 2014年の福井地裁の場合には、 関電が想定した基準地震動を超える地震が来ないとの確実な想定は不可能であること、福島原発事故を例にあげて原発の安全対策はいまだに不十分であること、原発の稼働は電気を生み出すという経済活動でしかなくそれは人格権より劣位にあることなどを理由に、大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じた。2015年の福井地裁の場合には基準地震動の大幅な引き上げと根本的な耐震工事の実施を求めて高浜3、4号機の運転差し止めの仮処分を下した。 2016年の大津地裁の場合は、新規制基準を含めた原発 の安全性に対する立証責任を関西電力にもあること、福島原発事故の原因究明は完全に解明されたわけではなく、その状況で策定された新基準をクリアした原発がなぜ安全なのかについての説明が不十分だとして、高浜3、4 号機の運転を差し止める仮処分決定を下した。 これらの判例に共通する点は、原発が将来もたらしうるリスクを相対的に大きく予想しており、そのリスクは許容範囲を超えるとしたことである。この点について国や電力会社の見解は異なっており、両者の間には大きなパーセプション・ギャップがある。
2.立証責任と説明責任
これらの司法判断について、原子力を進める側からは 以下のような反論を含む大きな関心が寄せられている。 1司法は、行政庁の審査や判断に過誤がなかったかどうかを審査することを主眼とする場合と、裁判所自らが
クは許容範囲を超えるとしている。 原子力施設の安全性を評価する場合とがある。 2科学技術の最先端の分野における争点をめぐって、問題は、大津地裁決定のような司法判断と科学技術の司法の判断と国や専門家による判断とが食い違う場合が 知見が食い違ったことにあるのではない。科学技術をめ ある。それぞれの論拠は何か。この調整をどう図るのか。 ぐる対立的なテーマにおいて、その是非や社会的受容を 3原子力事業者や行政庁のふるまいに課題はないか。 めぐる問題は客観的なデータだけで決着する話ではない。 4この問題の背景には、科学技術をめぐる不確実性へ それは価値の調整を含む問題である。そして、このよう の対応をめぐるコンセンサス形成の問題がないか。 なテーマについて今の日本においては、多様な意見を調 これらの疑問や先ほどの3例の司法判断が求める論点 整する社会的な回路がないのだ。 はさらに2点に集約できる。一つは電力会社に立証責任 さらにこの日本では、原発をどうするかということを や説明責任に関する問題、もう一つは不確実性のある低 国民的に本格的に対話する場や異議申し立てを受け止め 頻度・大規模災害にどう対応するかという、いわゆるト る社会的な回路が何もなかった。そのためにそのような ランス・サイエンスの問題である。 異議申し立ての手段はやむなく、デモや司法に向かった。 福島原発事故が起こるまでは、司法はこのような複雑 「未然防止」から「予防原則」へ な問題に対する判断の根拠を当該分野の専門家による知 最初に立証責任と説明責任について述べる。 見に委ねてきた。それによって複雑性を縮減させてきた。 通常の民事訴訟では原告が、原因と被害との因果関係 けれども福島原発事故は、そのような司法の姿勢に対し、 を立証しなければならない。しかし公害問題を契機に ある種の内省や反省を迫るできごととなった。つまり、 1960 年代後半以降の裁判では、この因果関係の成立要件 当該専門家だけにこの問題の判断を委ねる妥当性に、懐 が緩和された。対象がもつリスクが明確でなくてもその 疑的な視点が生まれたのである。 リスクの可能性が推認できれば、権限を行使できるよう に緩和されたのである。これを「未然防止原則」から「予 価値の調整をどう図るか 防原則」への転換という。なお後者の「予防原則」は現 原子力を進める側の考え方の根底には、先端的な科学 在の環境基本法の基本理念となっており、地球温暖化防 技術に関わる選択には高度な知識と経験が要求されるた 止対策の枠組みも、これに沿って進められている。さら め、その判断は専門家に任せるべきだとするパターナリ に1992年の伊方最判も、これに沿った判決を下している。 ズム的発想がみえる。しかし、遺伝子組換の問題を例に ただし、先の大津地裁が関電に対し、新規制基準の合 あげるならば、これをどこまで認めるかについては専門 理性の説明まで求めた点は、矛先が違うといえる。この 家の意見は参考とされるものの、この問題は専門家が決 説明責任を果たすのは、本来は規制委だ。しかし規制委 定していい話ではない。ところが原発問題においての専 は、この役割を果たしていない。このため地裁はやむな 門家は、自らの意見は参考とされるにとどまるのではな く、関電にその説明を求めたという構図が成り立つ。 く、その決定にまで関与することが妥当だとの認識をも 要約するならば大津地裁決定は、官邸や規制委、そし つ人が多い。大津地裁などの判断は、こうした専門家の て電力会社による安全の論理と責任所在に関する明快な 姿勢そのものに異議を投げかけた可能性がある。 説明を求めたと言えよう。 国は、原発の安全の論理はどのようなものか、そして 万一の事故の際にはどのように責任をとるのかについて、 3.トランス・サイエンスの問題 みんなの心に届くように真剣な説明をしてきただろうか。 二つ目の論点は不確実性のある低頻度・大規模災害に 私たちは、これからの原発をどうするのかという社会設 どう対応するかという問題である。 計の議論と、その議論の結果の正当性を確保する回路を 国や電力会社、専門家と大津地裁などの司法判断との 構築する必要に差し迫られていないだろうか。 見解が分かれる背景には、両者がもつリスク観の違いが 至近の司法判断は原子力関係者に、これらのことがら ある。前者は福島事故後、原発の安全性は大幅に向上し を問いかけた可能性がある。そして、これらに対する回 ておりリスクは十分許容範囲にある、再稼働は合理的だ 答がなされないままであれば、原子力界は今後もさまざ と見ている。しかし後者はこれからも、福島原発事故並 まな回路を通じてなされる異議申し立てにこれからも、 みの事故が起こる可能性があることを懸念し、そのリス 翻弄される日々が続くのではなかろうか。 - 348 -“ “原子力発電をめぐる訴訟について“ “佐田 務,Tsutomu SATA
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