特集記事「AIによる故障予測~物理モデルによる異常データ生成~」
公開日:MathWorks Japan
井上 道雄 Michio INOUE
王 暁星 Xiaoxing WANG
AIによる故障予測~物理モデルによる異常データ生成~
1.はじめに
AI を活用した「予知保全(Predictive Maintenance)」の取り組みが注目を浴びている。予知保全とは機器に取り付けられた各種センサーから得られる情報から、機器の故障時期を予測し適切なタイミングでメンテナンス実施を目指すものである。過度なメンテナンスを避けられることによるコスト低減はもちろん、突発的な故障を減らすことで稼働率や安全性の向上なども期待される。 IoTや AIの普及に伴って工作機械や生産設備など様々なところで予知保全のニーズは今後更に高まることが予想される。
図1 機器に取り付けたセンサーデータから機器の残寿命を予測する例
また AI関連の技術はここ数年で急速に発展し最近では AutoML[1] など一部の過程を自動化する技術も提供されるなど、 AI利用に対するハードルは下がってきている。その一方で、アルゴリズム開発に不可欠な"故障"時のデータは不足しているケースも多く、予知保全の実用性には懐疑論も存在する [2]。本稿では予知保全に求められるデータ要素や異常データに対する考え方、そして物理モデルを使ったシミュレーションデータによる代替方法を中心に紹介する。
2.故障予測における課題
予知保全システムを構築する上で技術者が直面しやすい課題 [3]の中でも、本稿で注目するのは"故障データが不足している"点である。故障データを得るために機器を故障させるのは費用面で現実的ではないため、故障データの入手は困難である。さらには故障が発生しないよう頻繁にメンテナンスを行っている場合や、セーフティクリティカルなシステムのために故障を発生させるわけにはいかない場合などでは故障データがそもそも存在しないとの声もよく聞く。
監視対象の機器から取得されたデータをもとに故障を検知しようとしているにもかかわらず、故障時のデータが無い場合はどうすればよいのか。予知保全は機器の運用データを何らかのアルゴリズムに入れて機械の耐用年数を予測する「ブラックボックス」ソリューションではない。本稿のテーマである"適切な量の故障データ"も何を実現するかによって大きく異なる。まず機能要求とそれを実現するのに必要なデータについて考えてみる。
2.1 予知保全に求める機能と必要となるデータ
どんなデータが必要なのかは目的による。異常が発生していることが分かれば十分なのか、それともどんなアクションを起こすかなどの意思決定に寄与する情報が求められるのか、どのレベルでの"故障予測"を実現するべきなのかは明確にする必要がある。
何らかの異常(普段発生しない状況)が発生しているかどうかの判断であれば、例えば正常運用時のデータだけでもある程度の予測はできるだろう(図 2上段)。ただ、故障診断を目的とするならば故障部位や故障モードなどのラベル付きのデータを準備する必要があり、運転条件や運転環境も含めて考えるとデータ収集におけるハードルの高さは想像に難くない(図 2中段)。またメンテナンスまで残された時間の予測(寿命予測)においては、機器の稼働開始から
故障発生までのデータ(寿命データ、 Run to Failure データとも呼ばれる)があれば解析の幅も広がるが、こちら
も収集は難しい。(図 2下段)
いずれにしても部品や機械の微妙な変化を検知しようとするのであれば、機械の振動や音などの精密な計測データが重要であり現象がデータに表れていなければいくら高度な手法も役に立たない。目的を明確にしたうえでデータ収集に取り組むのが最も堅実な方法であるが、以下では故障データが手に入らない場合に試行できる方法を紹介する。
図2 予知保全に求める機能レベル
2.2 故障データがない≠故障の予兆を示すデータがない
経時劣化する機械について劣化の進行度合いが課題であれば、故障データがないことと故障の兆候を示すデータがないことは同一ではないという考え方もできる。時間軸上で正常データと故障データの間に位置する準正常データ(例えばメンテナンス時のデータ)を考察することで、故障の兆候を発見することが可能となる場合もある。(図 3)
図3 正常データと故障データの間のデータの活用
図 4は 2MW風力タービンの高速シャフトの振動データ [4](サンプリング周期約 100kHz)を 1日あたり 6 秒間、50日分連続してプロットしたものだが、信号のインパルス性が増加傾向にあることがわかる。 50 日の期間中に内輪の不具合が発生し、ベアリングの故障の原因となっているが、計測の最後まで待たずとも途中の段階で劣化の傾向が見て取れる好例である。振動データの標準偏差、尖度、ピークツーピーク値(最大値と最小値の差)など、劣化度合いの定量評価と適切
な"故障"もしくは"異常"の定義を行えば、図 1に示すように許容できる劣化度合いを超えるまでの時間、すなわち機器の残り寿命を予測することが可能になる。詳細な解析例については [5]を参照されたい。
図4 インパルス特性が増加傾向にある振動データ
2.3 データの補完方法
少ない故障データを補完する方法として、加速劣化試験や対象の機器の物理モデルを作成し故障データをシミュレーションで再現する方法がある。後者については次章で詳しく触れるが、前者についても簡単にここで紹介する。
加速劣化試験は機械を過酷な条件下に置くことで劣化速度を上げ製品寿命を検証する試験である。製品の劣化を物理的、化学的に加速することによって短時間に故障を検知することを意図している [6]。人為的に変化させる条件としては温度や湿度などの熱的ストレス、振動や応力などの機械的ストレス、そして電圧、電流などの電気的ストレスが挙げられる。もちろん機器の劣化を完全に再現することはできないが、劣化進展の補助データとして使うことができる。例えば Paris Model など物理的現象に対する数理モデルを使用するアプローチ [7]では、モデルを使用して加速度条件下での計測データを通常運用時の条件にマッピングさせる。そして上述の劣化モデルのパラメータの事前確率の精度向上に使用し予測精度を上げることが検討されている。また加速要因に依存しない"良い"特徴量の調査に使用するという例もみられる [8]。いずれにしても試験は劣化要因ごとに個別に行われる事が多く、様々な要因が絡みあう現実と同じ劣化が再現できるとは限らない点には留意が必要だ。
3.物理モデルからデジタルツイン
機器の物理的構成要素がどのように互いに影響しあうかを考慮しこれらの相互作用の機能的関係をモデル化する。その際、様々な故障シナリオを想定して物理モデル内にそれらの故障の原因となる劣化のモードを組み込むことで擬似的に故障データを生成する方法である。高度にモデル化されたものはデジタルツインとも呼ばれることもあるが、実際に稼働している設備を仮想空間でモデル化し、リアルタイムの稼働状況や環境情報に応じた動作の評価、そして将来の動作予測、稼働の最適化や故障予測の実現などに期待が高まっている。
例えば Krones 社ではデジタルツインを活用し、デルタロボットを使った飲料パッケージングシステムの大幅なパフォーマンス向上はもちろん、試験期間の短縮、実機との差分解析による故障再現を実現している [9]。 Transocean 社は地下からのガスや原油の噴出を防止する防噴装置の安全性向上にデジタルツインを活用した [10]。
3.1 物理モデルの構築と故障データの生成
ここでは MathWorks社が提供する SimulinkRと Simscape.を使用したピストンポンプの物理モデル構築の例を紹介する。
Simulinkでは図 5右のように Simscape で提供される物理コンポーネントをブロック図として繋げていくことで、物理システムを構築する。ピストンポンプの故障の要因として、モーターの劣化やベアリングの劣化、またパイプラインからの液体の漏れやパイプラインの目詰まりなどが考えられるが、各劣化モードは機能要素ブロックのパラメータを調整することで故障を模擬する。例えばトルクのパラメータ値を正常値よりも小さくすることでモーターが劣化した状態を表し、パイプラインと外部大気が接する断面積の値を大きくすることで液体が外に漏れている状態を再現する。ベアリングの劣化についてはジョイント部分の摩擦抵抗として表現し、パイプラインの詰まりについては断面積の値を小さくする。故障が発生または劣化が進展した際にどんな現象が発生するかを再現するものであり、モデルを実行すれば"自然"と劣化が進展するというものではなく、劣化の度合いをパラメータで調整する点には注意されたい。実機の測定データをもとにモデルのチューニングを行う場合も多く、物理モデルを活用する際も実測データの重要性は変わらないが、実測データがない場合であっても以下のように故障原因の予測アルゴリズム開発に活かすことができる。
図5 Simulinkと Simscapeを使用した物理モデルの構築と故障データの生成
図 6(a)は正常時(黒色)と複数の 2つの劣化モードを組み合わせた故障時(灰色)の回転速度を示す。図から故障時のデータは正常時の周期とは異なる振る舞いをしている様子が観察できる。しかし、生データから目視だけで各々の故障形態を判別することは難しい。そこで図 6(b)が示すスペクトル解析を行った結果、正常時のスペクトルとの区別は勿論、一部周波数帯で各々の故障形態を区別できる特徴的なピークが求まった。この求められたピーク値とピーク周波数に対して、機械学習を利用することで故障モード判別のアルゴリズムを構築することが可能となる。
このようにセンサーデータを直接利用するのではなく、高いレベルの情報を捉えた「特徴量」を使用することが大事であり、成功の鍵を握る重要なステップである [11]。では振動データを例に故障予測によく用いられる「特徴量」の計算方法について解説しているので参考にして頂きたい。
図6 (a)擬似的に生成された正常・故障データ、(b)周波数帯域における正常データと故障データ。異なる故障形態では異なる周波数帯にピークが出現する。
3.2 物理モデルと現実との乖離
最後に、擬似的に生成した故障時のデータの信憑性がどこまであるかの議論がある。物理モデルを細部まで再現できれば当然現実により近い故障データを生成することが可能となる。物理モデルはあくまでモデルであり、現実のデータとは乖離があることを認識した上で、生成された正常・故障データがどれだけ直感的に正常・故障時の特徴を掴んでいるかを把握することが肝要である。故障データがなく、何もできずに解析を諦めてしまうよりも、故障時の特徴を定性的なりとも掴んだデータを活用し一歩前に進み、後から修正を加えていくことが重要だ。
4.まとめ
本稿では予知保全を行う際に必要な故障データの種類と、故障データがない場合のアプローチを紹介した。物理法則(例えば電気、機械、油圧等)に基づき機器のモデル化を行うデジタルツインについても触れたが、異常の原因となる要素をモデル内に取り入れることで、故障データを再現することが可能となる。統計解析を中心とする場合においても、変数選択や数理モデル選択に対象機器に対する知見・経験に基づいた判断は必要であるが、物理モデルを使用する方法はその知見の活用をさらに進展させたものと考えることができるだろう。
AI というと機械学習を適用する部分だけが注目を集めがちだが、具体的にどの判断を AI に担わせるのか、そのために必要なデータは何か、そのデータはどこからやってくるのかについても、改めて検討の余地があるように考える。そして最終的にアルゴリズムはどう実装するのかという部分も含め、システム全体を考えた開発が重要だ。これらの要求に対していわゆるドメイン知識が果たす役割は大きい。 MATLABRはデータの前処理からアルゴリズムの開発だけでなく、データの作成、さらにはシステムへの展開までの全体のワークフローをカバーするプラットフォームとして活用することができる。データサイエンスとドメイン知識との橋渡し役となるプラットフォームを組織的に利用することにより、より一層資産共有及び再利用が加速され、開発効率向上及びメンテナンスコスト削減が期待できる。
MATLABとは
MATLABは 35年以上の実績を持つソフトウェアであり、数値計算、可視化、プログラミングのための高水準言語による対話型の開発環境である。世界中で 400万人を超えるエンジニアや科学者が、 MATLABを使用し、データ解析やアルゴリズムの開発、モデルやアプリケーションの作成を行い、アイデアの共有や専門分野を超えた共同プロジェクトのための共通言語として使用している。予知保全に関連する機能・ソリューションについて詳しく知りたい方は「予知保全」で検索。 MATLABによる予知保全のビデオシリーズも公開されている [12]。
参考文献
[1] MathWorks, AutoML, https://jp.mathworks.com/discovery/automl.html
[2] 予期せぬ稼働停止を防ぐ予知保全は有用か? --懐疑論に打ち勝つための教訓
https://japan.zdnet.com/article/35158639/
[3] Bechhoefer, Eric, Brandon Van Hecke, and David He."Processing for improved spectral analysis." Annual Conference of the Prognostics and Health Management Society, New Orleans, LA, Oct. 2013. http://data-acoustics.com/measurements/bearing-faults/ bearing-3/
[4] MathWorks, "風力タービン高速ベアリングの経過予測"
https://jp.mathworks.com/help/predmaint/ug/wind-turbine-high-speed-bearing-prognosis.html
[5] MathWorks, "予知保全で直面しやすい 4つの課題とその対処法" (White Paper) https://jp.mathworks.com/campaigns/offers/predictive-maintenance-challenges.html
[6] 田中浩和 , 加速試験の現状と課題 , エレクトロニクス実装学会誌 , 2010, 13 巻 , 7 号 , p. 502-506
[7] Nectoux, Patrick, et al. "PRONOSTIA: An experimental platform for bearings accelerated degradation tests." IEEE International Conference on Prognostics and Health Management, PHM'12.. IEEE Catalog Number: CPF12PHM-CDR, 2012.
[8] An, Dawn, Joo-Ho Choi, and Nam Ho Kim. "Prediction of remaining useful life under different conditions using accelerated life testing data." Journal of Mechanical Science and Technology 32.6 (2018): 2497-2507.
[9] MathWorks, "Krones Develops Package-Handling Robot Digital Twin" (ユーザー事例) https://jp.mathworks.com/company/user_stories/krones-develops-package-handling-robot-digital-twin.html
[10] Mete Mutlu, John Kozicz, Transocean, Inc. "Condition and Performance Monitoring of Blowout Preventer (BOP) at Transocean" (Webセミナー) https://jp.mathworks.com/
videos/condition-and-performance-monitoring-of-blowout-preventer-bop-at-transocean-1545303832202.html
[11] 井上道雄 ,"予知保全・故障予測~ AI の実践的活用例~"保全学 Vol. 18-2, 2019
[12] MathWorks, "MATLAB/Simulink による予知保全ビデオシリーズ"
https://jp.mathworks.com/videos/series/predictive-maintenance.html
(2020年 11月 10日)
著者紹介
著者:井上道雄 所属:MathWorks Japan 専門分野:異常検知・故障予測
著者:王 暁星 所属:MathWorks Japan 専門分野:異常検知・故障予測